タイトルにもある通り、日本に帰ってきて思ったことがあったので書いてみる。
今の若い世代はわからないが、どうも日本へ帰国すると男性の振る舞いや考え方に違和感を抱くことがある。発端は実家に住む父親の姿を見たことであった。
片付け絶対しないマンの父親
家族全員で夕食を済ませたあと、それぞれがシンクにお皿を持っていっていた。夕食を作るのは母親と決まっているため、当然ながら片付けはしようと思っていた。
しかし、父親は食べ残した残飯もろとも汚れた皿をシンクにほうり投げ、自分は早々と部屋に戻ってしまうのだ。それだけならまだしも、母親が不在中のお昼ご飯なども自分で食べたらそのままほったらかし。朝早起きしているくせに全く片付ける様子もない。
これは長い海外生活を終えて帰国した私からすると衝撃的であった。そのまま家を飛び出してしまいたいくらいの嫌悪感を父親に覚えたのだった。というのも、母が父親の妻であるはずなのに、小さな子供を持つお母さんのように甘えていたからだ。社会的地位もあり、退職して時間も有り余っている父親が赤ちゃんのように身の回りの世話を母親に当然のようにしてもらう姿はとても気持ち悪いものに思えた。
他にも食事中に冷蔵庫の中にある調味料をとってこいだの、皿を出せだの、お好み焼きを焼けだの(これについては母にちょっと言われただけでじゃあもうやらない!と拗ねた父親であった)とうてい大人の男とは思えない言動に目を疑ったのだ。
別に海外かぶれ女として意見を述べているのではなく、自立した人間としてやるべきこと、できるであろうことが何一つできない父親にガッカリしたのだった。
電車で空いた席に妻を座らせない夫
この強烈な違和感はさらに続く。母親と電車で買い物に出かけた途中であった。
わたしと母は座っており、席が一つだけ空いていた。車内は満員だが、目の前に立っている家族がいるせいか誰も座らない。その家族は父親と母親、そして小学生高学年くらいの息子の3人だった。
ひとつだけ空いた席を指し、父親は息子に座ることを強制した。早く座れ!足痛いだろう?と半ば責めるような言い方で促す。母親は、無表情でそばに立っているだけだ。息子はなぜか座るのを嫌がっていた。しかし父親は母親には座るようには促さない。誰も座らないなら席は空白のまま、妻のお前には1人だけ座る権利はないとでも言いたいのだろうか。
結局しばらくして遠くの2人席が空いた。その瞬間、息子は母親と一緒に座ると言い出した。その時、この父親がどんなふうに2人に対して接し、嫌われているのかがなんとなくわかった。
オーストラリアであれば、どんなときも男性は女性をまず座らせてくれる。彼女や妻であればなおさらだ。しかし、日本では男性が体力が必要なことや自分を犠牲にして女性に優しくすることはない。それどころか、嫌なことは女性がやればいいと思っているようだった。わたしは非常にショックを受けた。
自分は大事にされるべきと考えているのは未熟な人間
この年齢になりつくづく思うことがある。
人は子供のころ、何もすることができない。だから親に期待するしかないのだ。泣けば構ってくれる、お腹が空けばご飯がある、機嫌がわるければあやしてくれる。身の回りの生活も清潔で快適に整えてくれる。子供はいつも与えてもらえる。だが逆に言えば、人に与えることはあまりできない。
一方大人になれば自分のことは自分でするしかない。黙っていても誰も自分のことを理解してはくれないだろう。戦わなくてはいけない時もある。寂しい思いをつすることもある。しかしそれば全て自分が行ったことに責任が生じた結果なのだ。だから今の状況が嫌なら自分で行動を起こし、気持ちを相手に伝えることができる。
それができると余裕が生まれ、子供やまだ未熟な人に優しくしたり、与えたりすることができるようになる。そうやって子供は大人に助けられて生き、大人になったらまたそれを下の世代に返していくことができる。
しかし一番大変なのは、未熟な子ども大人である。見た目や社会的な位置は大人。でも心は子供のままなので、つねに誰かが自分の機嫌を取り快適な生活を提供しなくてはいけないと考えている。するとどうなるか?大人が大人の面倒を見ることになる。
本来はとても不自然なことをやっているわけだから、当然何かがおかしくなる。そこで成熟した大人は子ども大人の面倒を見てあげるか、もしくは縁を切ることを選択するだろう。
日本は未熟な男が多いのかもしれない。だからこそ、面倒を見きれなくなった女性が離婚を選ぶこともあるのだろうと思った。
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